鹿児島市山下町周辺の歴史散策

 A     この石像は、島津家18代家久の奥方持明夫人像『じめさあ』の名で親しまれています。持明院は16代義久の娘で亀寿といい、器量には恵まれませんでしたが、その人間性が尊敬され、人々は『器量はすぐれずども、心やさしく幸せな家庭を築いた』夫人の人柄を慕い、毎年10月5日の命日には、この像におしろいや口紅をぬって、夫人にあやかるようにおまいりするならわしが残っています。
 持明様
B     江戸城無血開城や明治新政府樹立など明治維新に最大の功績を残した「西郷どん」ですが、征韓論に敗れ下野。その後、西南戦争で新政府軍と戦い敗北し、この城山の地で自刀しました。
西郷隆盛の銅像 
 C   この小松帯刀像は、慶応3年(1867年)に、15代将軍慶喜が、二条城に諸大名を集めて、政治の権力を朝廷に返還(大政奉還)すべきかどうかを問うたとき、薩摩藩の城代家老であった小松帯刀が「大政を奉還すべき」として地藩にさきがけて記帳したときの様子をイメージして造られたもので、三公像(島津斉彬、島津久光、島津忠義)の建つ、照国神社をむいて建立されています。
山下町7、8番、9番の西、10番の南西2372坪が上屋敷跡。
原良に下屋敷跡があります。
  
小松帯刀の銅像 
 D    薩摩辞書は慶応元年(1865年)に作られた我が国初の
活版印刷の英和辞書。
 
  薩摩辞書之碑
 E    鶴丸城は鹿児島城ともいい、17世紀初頭に島津氏18代家久(初代藩主)が築いた舘造りの城で、明治初年まで島津氏の居城でした。この城跡には第七高等学校造士館、鹿児島大学医学部などが置かれましたが、昭和58年10月に黎明館が開館しました。  
鶴丸城跡 
 F    天保10年(1839年)27代島津斉興のとき、水源地より水を運ぶためにこのような石管をつないで用いたという記録がある。井後眼科隣の旧大見ビル(現メガネコンタクトビル)建設の際、同じ石管が出土しています 
  水道石管の跡
 G    ここ鹿児島市役所本館の敷地は幕末には、薩摩藩の米蔵があった場所です。明治10年(1877年)に起こった西南戦争の際には官軍の本営がおかれました。 
西南戦争官軍本営跡  
 H     小松帯刀は、幼命を肝付尚五郎といい、鹿児島城下の「喜入屋敷」で天保6年(1835年)10月14日に生まれました。場所は現在の鹿児島市役所の西北隣に当たる広い邸(2,224坪)でした。
(左写真の山下町12番、現レズィダンスシャルルフロッケ山下町を含む一角全部)
 
小松帯刀生家址 
 

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